録画しておいた「ハウルの動く城」を観た。

まず大前提として、意欲作にしてバランスよくまとまった、良作であるとは思った。ひとことでいうなれば「宮崎駿の最後にして渾身のラブロマンス(恋愛箪)」といったあたりか。
いきなり話は反れるが、某映画評論家が「ブレイブストーリー」についてこう発言していた。「私は宮崎アニメを越えて欲しかったんだけど…えー、いろいろしがらみがあるんで、ま、観てください、いい映画です。」 なんというか、いい表現なのだろうな、と思った。この夏も私(おうる)は映画館に行かずに済ますことになりそうだ。…てなことはともかく、某映画評論家にしても、ブレイブストーリーと宮崎映画の間に「観るべきか否か」の境界線(というか越えられないミゾ?)があるということだ。
そこは踏まえた上での以下のお話。
2006/07/21 の放送では視聴率が 30% を越えていたらしい*1。私(おうる)と同じように「DVD 借りるほどでもないんだけど、まあ、地上波に降りてきたのだし、折角だから観ておくかな」ぐらいのスタンスの人がいかに多かったかということだろうか。
難解だといわれているそのストーリーだが(といっても「もののけ姫」とか「となりのトトロ」などとの比較問題ということだろうけど)、このへんのレポートで予習済みだったので特に問題なく受け入れることができた。宇佐教授にも若干踏み込み不足の部分があるようだが、それは悪魔との契約云々に関する部分に起因しているようだ。もう何回か観ないとはっきりしたことは言えないが、魔術とかそれにかかる肉体契約に関する素養があれば、敢えて表現されていない行間が浮かび上がるのですっきりと観ることができるだろうというのが私(おうる)の見解(というか予想)。残念ながら私(おうる)もそのへんは仕込みが充分ではない。ただ、乙女の髪が充分な(魔)力を発揮するための媒介として作用する点、カルシファーが「目か心臓だったらもっと…」と((恐らく)うっかり)口走ったことをきっかけに荒地の魔女が過剰反応して暴走する点、などからすると、重要なのはやはり「契約」という縛りだ。何故これを「喋る」のがいけないのかというと、契約の内容を口外しないというのが力を得る為の「誓約(制約)」の一部であるということや言葉そのものの「詠唱」が呪文としての力を持つというほかに、それを手掛かりに仕掛けられた契約を解き、魔法を破ることができるからであって、相手を無力化できるばかりでなくあわよくばその魔力の源泉たる媒介、つまり、貴重な資源をわがものにできるからだ。
ただ、そのへんを直感で理解することは、複雑すぎて困難且つ興を殺ぐので、「童話レベルのファンタジーの世界」には(そういう世界観を背景として持ちつつも)そこまでの理屈を導入していないようにみえる。それを、更に文化の違う(どちらかというと「力は内に宿る」という思想に馴染んでいる)日本人がデチューンしてアニメ化しているので、部分的に不整合が生じ、更にわかりにくくなっているのではないか、という俯瞰。(要は、西洋の童話を読むのにキリスト教文化に関する知識は無くても大丈夫といえば大丈夫だが、知っていればより深い理解が可能なんだけど、翻訳者がそういうことお構いなしで翻訳しちゃっているので、みたいな構図。)
でもって更に話を見えにくくしているのが、宮崎駿の「御子様」な部分。欽ちゃんとはまた別の意味で「コドモ」な駿さんは、アニメの中でわかりやすい性描写を絶対にしない(で来た)*2。恋愛描写もしない(で来た)*3。…というか、本人はめいっぱいしているつもりなのだろうけど、それは独特に屈折していてまるで謎掛けかなにかのようであり、圧倒的に足りていない。だから、性とか生とかのそのへんの機微がストーリーの重要な一角をなす本作において、橋渡しができていない為に脈絡が切れ切れになってしまうのである。中盤、ソフィーがハウルに対して「あなたを愛しているから!」というが、このあまりに唐突な発言に観客は「は?」となる。勿論、その時点で巻き戻して慎重に観直せば筋は充分繋がるのだが、普通はそんな興醒めなことはしないから、このへんは、観る側がめいっぱい妄想をかきたて、連想をフル回転して補完して観なければならないというのが掟らしい。(でも、それもまた嫌な話だ。)
物語とかファンタジーとか、そういったものの醍醐味とか神髄を味わいたいのなら、いつまでも「宮崎目線」に頼っていては駄目らしい。ただ、私(おうる)は人一倍の苦痛を伴う「読書」という手段を経てまでそういう世界に没入したいという欲求がないため、今ここまでのその世界に甘んじる。私(おうる)自身はそれで充分満足である、それほど期待もしていないので。
とりあえずの結論としてはある程度観たらあとは「動く絵画」を鑑賞し、満喫する、というのが、どうやらいちばん正しい「ハウルの動く城」の観かたかもしれないな、と思った。なんと言おうと、やっぱそのへんはものすごいよ。そういう観かたをする限りでは、 PIXAR を 3作品観るよりハウルを 3回観たほうが絶対にいい。みんながこぞって夢中になっている謎解きパズル遊びの餌としては、外部から新規導入するべきリソースが膨大すぎるような気がする(少なくとも私(おうる)には)。
日本語字幕スーパー版とかあればいいのに。

■ 追記

こんなレポートもあった。こちらも非常に興味深い。細かいシーンや科白の意味が更に浮かび上がった。でも結局「原作を読むべし!」というところに落ち着くのか。それはなんかいいや。しかも「原作の続編も読まなきゃわからない」らしいし。わー。

*1:32.9%

*2:性を賛美的なかたちで絵画表現していない、という意味

*3:手を繋いで寄り添うか、相手の為に全力を尽くせばそれが恋愛のメタファー、みたいな稚拙さが拭えない