「無法地帯」における「非武装地帯」とは。

もうちょい逃避してみる。
ネットを戦場にしない方法」(猫蹴猫拳より)を拝見し、思ったこと。
まず、mixi は、現実問題として「非武装地帯」ではない。むしろ、「初心者」という楯を持った無理解な人達が次から次へと現れ、小さな火種が絶えない。しかもコアとなるのは小さなコミュニティ故、数多のローカルル−ルが生じ、場所によっては窒息感の高い空間となっている。これは表面上平和に見えるだけに却って始末に負えない。プライバシーを預けたその分だけの安らぎが SNS 空間にあるか、というと、答えは否、だ。
しかし、これは現実社会とさして変わらない状況であるといえる。
法治国家である日本国内におけるごく普通の社会を見ても、閉鎖的なコミュニティを作れば平和が訪れるかというと、決してそんなことはない。不思議なことに*1、そのメンバーの中に必ず嫌な奴が 1人はいる。ごく普通のコミュニティ(学校のクラスでもいいし、会社の部署でもいい)をみたって、いちばん仲良かったはずの奴らが、突然凄惨な喧嘩を始めることがある。たった 2人の最小単位コミュニティですら、周囲を巻き込んで壮絶な破綻をもたらすことだってある。
普通の社会において恒久的な「非武装地帯」が作れないことは、既に歴史が証明している*2
ましてや「無法地帯」であるネット社会に於いてをや。
勿論、「バトル限定フィールド」を作ることも限りなく不可能に近い。「はい、来月から喧嘩したい人は渋谷センター街(が、まずければ、池袋西口駅前広場とか?)だけでやってくださいね!」なんてことができるわけがない。狼藉者は神出鬼没である。大小さまざまあれど、世にいさかいの種は尽きないのだ。
しかしこのことは、もうひとつのことを示唆している。確かに、渋谷駅で普通にショップ店長をやっている人が万引き犯に返り討ちにされて短い生涯を閉じる。何も悪くない小学生が、その性別的・年齢的属性のみによって不法入国者の一時の快楽のために殺される。ワンマン社長に目の敵にされ、コーヒーをかけられてもただ耐える。うっかり発したひとつの単語それだけで「こいつは敵」の烙印を押される。電車のシートに異臭を放つ浮浪者が寝ている。…でも、そんなもんだ。日常は、概ね平和裡に進んでいる。突然刺し殺される確率は極めて低率だ。そして、少々理不尽に思えても「生活の知恵」としてつまらぬいさかいを避けるべく、多くの人は自然に動く。危険な場所をかぎわける「嗅覚」も、知らず知らずのうちに身に付けている。回避する「方法」は必ずあるし、多くの人は自分なりのそれをいつの間にか学び、体得している。
日常生活程度の「平和」なり「非武装」なりであれば、普通の社会の縮図であるネット社会においても、比較的苦もなく実現できるであろう。目指すべきは、そのあたり。究極平和のパラダイスであるべきではない。そんなものを目指せば、現実社会と同じく、すぐ破綻するだろう。
長い人類の歴史の中で、偉人と呼ばれたような為政者も、意識の高い市民達も、決して築くことのできなかった平和社会が、できるのであればそりゃそんな素晴らしいことはない。でもそれができないからといって、悲嘆にくれる必要もないと私(おうる)は思う。今日も”概ね”平和だ。今日の私(おうる)は”非武装地帯”にいる。(それは勿論、明日もそうであるという保証のない、儚い”平和”であり”非武装”に過ぎないのだが。)

あとそうだ、「大手小町」(発言小町)ってあれ既存のバトル専門フィールド(隔離エリア)だと私(おうる)は思っていたのだけど、…違うの?

*1:実際は不思議でもなんでもないのだが。

*2:ただ「女性専用車両」みたいなもので仮初めの平和状態が実現できることも、事実といえば事実。勿論、それを平和と名付けるかどうか、なんてあたりに問題は移行してゆくだろうけど。