「『諭す』技術」

 私の大学時代、所属していた研究室の教授であり、卒論の指導教官であったI教授。一部では「異端」と揶揄されていたらしい彼は、論客だった。そして、行動派だった。ひとの権利というものに敏感で、「卒業する人は研究室内の荷物を3月25日までにすべて片付けてください」と貼り出した院生F君を呼びだし、「3月31日までは権利がある。お前にその権利を侵害する権利はない。即刻撤回せよ」と、こっぴどく叱りつけたこともあった。
 議論好きで好奇心旺盛、ともすれば野蛮に見える彼も、他人の立場や生き様を尊重する非常に細やかなところがあった。彼の講義では追試は当たり前、場合によっては4回もの追試を実施した。掲示板に貼り出された「再々々追試」の告知を見て、まだ無邪気な下級生は「よっぽど出来が悪いんだね」などと笑っていたが、そうではない。落第者が1人でも少なくて済むよう、しなくてもよい努力を教官が重ねている結果なのだ。
 彼との話で私が印象に残っているもののひとつは、食事を採っているときのことである。
 茶碗に盛った御飯に箸を突き立てることは、仏前に供える飯と同じということで禁忌である。しかし私は、こうした宗教的なお約束が好きではない。やれ子供の頭に触ってはいけないの、女性は顔を晒しちゃいけないの、輸血はいけないの、昼間食事しちゃいけないの、…甚だ効率が悪い。こうした宗教的な因習を、ただ習慣だからということで何も考えずに守っているのは愚かだ。やるならそれなりに自分でまず意味を熟慮し、自分の意志でやるべきだ。…そんな話をしながら、私は学食のごはんに箸を立てる。「箸を立てるのだって、私は仏教徒ではないから、縁起が悪いだなんて思わない。マナーが悪いという話なら聞く耳を持とう。しかし、罰が当たるとかよくないことが起こるなんていう話には聞く耳を持たない。」
 それを聞いていた教授はこう切り返した。「確かに君は御飯に箸を立てても何とも思わないかもしれないが、それを見て不愉快に思う人が周りにいるわけだから、その人のために、君は箸を立てるべきじゃないだろう。」
 やられた、と思った。
 過不足無い論拠。議論のための議論でありながら、単なる反論のための反論ではない。相手を一撃のもとに撃ち落としてはいるが、叩きのめして撃沈させるわけではない。私は、教授のこの一言によって、自分の思想地平まで拡げられた気さえした。私は「論破された」というよりは「諭された」のだった。
 私は研究室に3年間所属した。それはそれなりに有意義で充実した日々ではあったが、教授の思い描くような「快刀乱麻の Geologist 」には遠く及ばなかった。単なる議論のテクニックでは私も彼に引けを取るつもりはなかったが、肝心の学術的な面で全く期待に応えることができなかったは残念だ。さらに言えば、彼の本業でもって彼とまともな議論ができるまでに私が至らなかったことも、今となっては甚だ残念である。