風邪をひいても昔ほどは切実でない。

昔は歌を歌っていた。割と本格的に教えてくれる人が大勢いたので、声楽の基礎から割とみっちり叩き込まれた。その頃は、楽しんで歌うことや歌によって何か内的なものを表現するとかそういう方向性は皆無で、正しい発声により正確な音程を正確なリズムで正確に繰り出す、つまり、ひたすらに身体を楽器にする、それも、より優れた楽器にすることにトレーニングの主眼がおかれた。だから、貴重な練習時間の何割かは単純な発声練習に割かれたし、文化系なのに腹筋を鍛えるメニューまであった。体調に気を遣うのも、喉をいたわるのも、全ては声のため。そんな生活にあって、冬というのは過酷な時期であった。空気の乾燥、筋肉の硬直、そしてなにより、風邪。
そんな冬のあるとき、かなり酷い風邪をひいた。その日の練習は特別大事なものだったので顔を出したが、とてもではない、咳も激しいし熱もかなりあってとても立っていられる状況ではなかった。練習時間半ばにして私(おうる)は早退させてもらうことにした。徒らにうつしてもいけないという配慮もあった。帰りのバスで、私(おうる)は涙を流し、泣いた。そのときは、いま自分が歌えないことが、楽器ではない自分が、悔しくて悔しくて仕方がなかった。
そんなある種のストイシズムは、その後破綻し、私(おうる)は歌うことをやめた。
いちどだけ、歌いすぎて声が全く出なくなったことがあった。本番のあとだったから、よかった、そんなふうに思うことはできなかった。結局半日ほどで喋り声は戻り、歌の声も程なく戻った*1。なんだったのかはよくわからないが、実に 10年近くに及んだ私(おうる)の緩慢な変声期の、その声変わりのほんの一場面に過ぎない出来事だったのかもしれない。でも、そのときに感じた恐怖感は、筆舌に尽くしがたい。たった今から丸 1日間、声が出なかったとしても、それは当時と意味合いが全く違う。あの当時だったからこそのあの思いは、たぶん一生忘れることができない。
今では、ちょっと風邪をひいたぐらいでどうということもない。ちょっと息苦しく、しんどいだけだ。そう、別に大したことではない。

*1:戻ったと思ったのだけど、実際は同じ声には二度と戻らなかった。…のかもしれない。