日記にタイトルなんて要らないじゃん、という言説はきっとブログ世界の彼方此方で花咲かせられているのだろうと想像する

最近だと e-mail の Subject: ヘッダも空欄でいいじゃん、というか Subject: で事足りるから本文要らないじゃん、というような風潮もあるようだ。まあしょうがない。そういうフォーマット(書式)が定義されているからそうなっている、というだけの話であって、メールクライアントソフトはその e-mail のフォーマットに合わせて、これを読みやすい書きやすい整理しやすいように表示なりレイアウトなりをしているというだけの話であって、もし違うフォーマットならば別の形のメールクライアントが開発され、使用されるだけの話だ。いろいろな目的用途に使用されるものだから、フォーマットは最大公約数的なものとなっているのが自然であり、余計だと思われる部分はその用途に応じて使用しなければいいだけの話。
ブログシステムだってそうだ。純粋な日記ならば、普通、タイトルは付かない。タイトルを付けて整理するのも、どちらかというとそういうフォーマットだから、という部分が大きい。テーマ別分類などをもっと強力に利用したいのなら、日記システムはもっとカード型データベースに近いものであるべきだし、そのほうが慣れれば遥かに便利だ。書く側のインターフェースはほとんどそのままでいける。表示の部分で工夫をする形。
何故そうなっていないかと言えば、それは HTML に準拠しているからである。呪縛に囚われている、と言ってもいい。
HTML は本来、文章の構造を記述するものであってレイアウトや文章装飾をするものではない、というのは原理主義的な人からよく聞くお言葉だ。私(おうる)もそれは否定しないが、それにしては HTML は構造化された文章を記述するのにあまりにも不向きである。普通の文章は、段落の上に「項」があり、その上に「節」があり、場合によってはその上に「編」があり、ひとつの文章の体をなす。こうした「完全入れ子構造」を記述するタグが貧弱なのである。だから結局のところ、HTML は構造もまともに記述できないし、体裁もまともに表現できない甚だ中途半端なものである。ただし、その包容力ゆえ、いまだに滅ぶことなく使用され続けている。
そんなようなわけでもって(相変わらず「どんなわけなのか」はよくわからないのだが)日記にタイトル欄が付いているのも HTML の構造の関係上なんとなくあるわけで、要らないと思ったら使わなければいいし、検索や分類やブクマに便利だと思ったら有効活用すればいい、それだけの話だ。私(おうる)も当はてなダイアリーにおいて、H2 ヘッダはほとんど無視している。
話は e-mail に戻る。その昔、メーリングリストを友人とのコミュニケーションに利用していた頃があった。このときには、メールのタイトル(Subject:)に特定の文字列を入れて特定のアドレスに送信することによって、メンバー全員に再送信(配布)されるという友人お手製の簡単な(といっても私(おうる)には書けないが)システムを利用していたので、メールの Subject: ヘッダの存在は重要であった。…もっとも、もし Subject: ヘッダが無ければ無いで、例えば本文の冒頭の文字列を使用するとか、とにかく他の方法を使用していただろうというだけの話であって、別にヘッダが重要ということにはならない。
しかも当時の e-mail は、2バイトコードをヘッダに入れると、高確率で不可逆に化けた。だから、本文は日本語でも、タイトルは英語で書くというのが常識、というか、ネチケットのひとつとされていた。まあ、実際にやってみればわかるのだが、「そういうものだ」と思って使えばそれほど苦にならない。だがしかし、メーリングリストを利用した会話のような、特に「構造化されていない」メールの場合、その文章にタイトルなど案外つけようがないものである。要するにほとんどのメールが「四方山話 そのxx」なのである。しかもそれを英語で書く。そのうちほぼ無理がくる。
そこで私(おうる)は徹底的にメールの内容とは関係のない学術用語・時事用語などの英単語をメールのタイトルとして用いた。これならばネタはその気になればいくらでも拾ってこられる。感覚的には「マシマロ」みたいなものである。それの英語版。タイトルから話題を膨らませたりも特にしない。
その癖が今も時々抜けず、日記のタイトル(H3)にも意味のないものをつけたくなってしまったり、結局内容と大幅にずれてしまったりするのである。



本日のまとめ:私(おうる)は有意義なタイトルの付け方が下手である。