何について書いているのかよくわからないのでタイトルはあとでつけようと思っていたのだが、結局つかなかった。多分、大学について主に書いている。

大学と真面目に取り組み、それなり真剣に勉強してきた多くの人にとって大学とは、世界の現実を垣間見る一種の仮想体験だ。あるいは、業界の現実を目の当たりにするある種の仮想体験。運動会の障害走のようなものだ。飽くまでメインレースではない。でその障害走で全力尽くした直後に(社会に出ると)連日連夜砲丸をものすごいペースで投げ続ける日々(という一般イメージ)。
助走、と言ってもいいかもしれない。ただしそれはそのときから助走とわかっているわけでもなく、助走と思って走ると離陸できない。それが助走であったと知るのは(それもどういう助走であったのか知るのは)結果論的解釈である。当然、走るわけだから、エネルギ−を消耗する。しかも(多くの場合)計画的に走ることを許されていないわけだから、場合によってはリソースを喰い潰す。
「4年生になると輝きを失ってしまっている、疲弊してしまっている人が多くいます。そうならないよう気をつけてください。」大学入学当初に頂いた、とある教授からの「忠告」は、指導する側にとってはまさに消沈する現実だったのであろう。大学入学当初のキラキラ(ギラギラ?)した眼のまま、研究室まで来て欲しい、そう願う心からの言葉であったに違いない。
私(おうる)は大学の理系学部を修めた。総合大学だったため、興味の赴くままに様々な講義を取って、自分の世界を広めた。そのこと自体は私(おうる)にとってプラスだったと思っている。しかし、肝心の専門科目については、硬く考えすぎた所為もあるのかもしれない、残念ながらモノにすることができなかった。つまり私(おうる)にとって大学期間とは、夢を諦めるために現実を知る時間であったといえる。と同時に、その「世界の現実」とは別のもうひとつの現実、自分の持っているリソースの早々なる枯渇を知る瞬間でもあったわけだ。正味な話、空回りしつつもやるだけやり尽くしても私(おうる)はそこまでであった。その先の世界を知る前に、世界が限界を告げた。もう走れない。
閑話休題。私(おうる)は何故か縁あって、美術系の人と知り合う機会が多い。彼等は、その道に向かうと志した段階から厳しい訓練をし、技術とセンスを磨いてゆく。それは容易ならざる道だ。しかし、彼等の話を聞いて、することを見ていると、一旦やり尽くしたがゆえの独特な空気が漂っていることに気付く。卑近な言い方をすれば、新鮮味を欠く、ような気がする。彼等の持っている美術的なキャパシティは、恐らく一般人の何倍もあるのだろう、でも、それを全てぶちまけ、叩きつけ、燃焼し尽くすような経験を彼等は(きっと)してきている。美大のキャンパスは、そんな生々しいエネルギーで飽和していた。そこで何を得たのか、何を置いてきたのか、私(おうる)は知らないし、理解したくてもできない。しかしなんというのか、ある種のカタルシスを得るであろうことは想像に難くない。
私(おうる)は一般レベル以下の美的センスしか持たないし、持ち前の器用さもうまいこと発揮することができない。だが、その世界に足を突っ込んでいないがゆえに、徹底的に打ちのめされた経験もないし、厳しい現実が身に沁みたこともない。どっちにしろ硬く考えすぎるから私(おうる)の手から何か素晴らしいモノが産み出されることは今後もないのだろうと思うが、でも、やり尽くしていないから、少ないながらも残っているのだ。ここに。
私(おうる)自身が大学で使い果たしたものなんて、今思えばたかが知れている。がしかし、その僅かなものだって、それとわかって大事にしていれば、もう少し持ったのかもしれない。とはいえ、なんだろ、そんなものちまちまとどうこうするより華々しく短時間で散らせたほうが余程いいのかもしれなくて、どっちがよかったのかはついぞわからぬ。
私は、大学で過ごしたあの時間がかけがえのないものだと思っている、しかし、もう少し別の費やし方が、ひょっとしたらあったのかもしれない、と、今更ながら悔やまれてならない。