日常という永久機関、非日常という減圧機構

以前にも書いたことのある話を含めて。
大学時分に、ある友人の運転する車に乗せてもらったことがある。当時の私(おうる)は免許をまだ持っていなかったので同乗専門、家族に車を運転するものがいなかったことや守備範囲外のことにはほとんど首を突っ込まない質ゆえに運転テクニックは疎か運転の方法すら知らなかった頃の話である。私(おうる)は興味も手伝って、何人かの運転する車のナビシートを占めたことがあったのだが、その彼の運転する車は乗っていて実に心地がよい。全体に滑るようなフィーリング。カーブにおいても、実にスムーズな印象で、横G を感じない。正確に言えば、横G を感じさせないなめらかな G のかかり具合。免許を取得してからの運転歴だってそう深くないはずなのに(大学生ですからね)、クルマという道具を深く理解し、実によく使いこなしているということが、ずぶの素人である私(おうる)にもよくわかる運転なのであった。別の言い方をすれば、面白みを欠く運転といえなくもない。
実は彼は、趣味としてカートをやっていたのだった。自機を所有し(置き場所は自宅ではなく知り合いのガレージだと言っていたけど)、たまにサーキットで転がしているという。カートは運転時の目線が低い(路面に近い)ので体感速度は実際の速度の 2倍。G も半端ではない。なるほど、そういう限界条件を経験していれば、クルマというものの特性を掴み、意のままに操るのも造作ないことであろう。しかしそれにしては、いま乗っているこのクルマの挙動はいささか退屈に過ぎる。この疑問をそれとなくぶつけてみた。
「カートとかやってると、こういう普通のクルマでも性能引き出してみたくなったりなんかしない?」
「…んー、カートのほうで限界までやってるから、逆に公道で無茶しようと思わなくなるよね。」
なるほどそうか。クルマを操るという興奮であるとか、緊張であるとか、達成感であるとか、そういうものをカートのほうで充分昇華しているから、実車では安全運転になるということのようである。これなら、クルマにまつわるトラブルも自然と減るであろう。カートという趣味は単純にテクニック向上という部分にとどまらないかたちで日常生活へとフィードバックされるのであった。
その後、私(おうる)も免許を取得し、仕事の現場で実地に運転技術を磨いた。基本的にクルマを操ることは好きである。ただしその運転はお世辞にもうまいとは言えない。その理由はいくつかあるのだが、ひとつには運転そのものの楽しみを日常の運転の一挙手一投足に求めているという側面が否めない。安全マージンを削っている、という評価を受けたこともあった。ある意味これは(ソーシャルにも、フィジカルにも)危険なことであり、事実、私(おうる)は速度超過でいちど捕まったことがある。
一方で。
私(おうる)のここのところは、運動らしい運動を一切していない。しかし、筋力の低下についてはその絶対的運動不足に相当するほど深刻には感じていない。それは恐らく、電車の中で吊革に掴まるとき、駅の階段を登るとき、荷物を持ち上げるとき、そしてただ歩くときも、筋肉の動きを意識するようにしているからである。その効率と分量はごく僅か、たかが知れていたにしても、日常という膨大な時間の中では、そのトータルの効果は計り知れないとも言える。
人間は肉体のみ、その肉体の動きの組み合わせのみ、で成り立っているわけではない。だから、生活を維持するにあたってその「それ以外」の部分の維持(メンテナンス)も重要である。では実際にそのメンテナンスをどの場面でどう実現するか。どうあっても溜まっていくものいかにして昇華してゆくか。上掲に拠らずとも、いろいろな方法があるだろうし、いろいろな方法があっていいはずだ。ただ、「日常」「非日常」、あるいは「オン」「オフ」といったほうがいいかもしれないその大区分は、生活を続けてゆく中でどうもなにか心情的・対外的トラブルが絶えないというような場合の打開策を打つにあたって活用すべきなんらかの判断基準としては有用なのではないかと思われる。
酒の呑み過ぎで体調が優れなく、仕事に差し支えるような人は、もう少し仕事の中に面白味を見出すべし。
仕事でついつい同僚にあたってしまう人は、体や心を動かすような趣味を積極的に実施すべし。
知らず知らずのうちに人はストレスという「内部不経済」を、流してはいけない分量でもって流してはいけない方向へ「外部化」してしまう。外へ流さずに生きてゆくことはできない、そしてそれを、どこで、どれだけ、流しているのかという事実を自覚するのは簡単ではない。簡単ではないが、それに気付ければ、まずは。