私(おうる)は日本語(をはじめとする、言語)の専門家でもないし、達人でもないので

いちいち細かく反応する気にもならないし、それができる立場でもないのだが。
同じ言い回しを使い、同じ仕草を模倣し、同じものを食し、同じものを眺める。そんな、野性的・本能的なコミュニケーションの初歩を否定する態度を吝嗇と呼ばなければそれ以外の何が吝嗇だというのだろうか。
ある特定の言葉や言い回しに嫌悪感を覚えるのはよく起こりうることだと思うし、安易に同じ表現を使用したくないという姿勢は修辞学の基本姿勢にも繋がるのかもしれないなどと想像したりする、しかし、それを自ら戒めとする、自らの著述の方針とするというのならまだしも、広く一般への提言として示してしまうのは果たしてどうなのか。
好き嫌いの問題だったら、よいのだ。「嫌いだから」という感情論で語る人の目に触れるところでその「嫌いなもの」を敢えて振りかざすかどうかは、その周り人の「思いやり」や「優しさ」の問題であるから。
一応念のため記しておくと、私(おうる)は、喧嘩を売ったつもりは、全くもって無い。ただ、そう取られてしまったのならそれは仕方がないことである。売り返された喧嘩を買うに吝かではない。
あと、ひとつだけ。id:nobody さんよ、年齢の話を出すのは全くもってお門違いだと思うし、何より、卑怯だ。