私が本を読むに至る経緯

私は以前から彼方此方で表明しているとおり、読書人属性ではない。「読書が好きか、嫌いか?」と訊かれれば迷うことなく「嫌いです」と答える。(周囲の人間にとって私のこの回答は意外らしい。)
そんな私が読書をするときというのは、その動機に関しては実にさまざまであると言えるが、共通している傾向としては「異なる 2方向以上からの「引き」を明確に感じたとき」、というのがある。
私は読書そのものに私自身の人生を求めない。そのかわり、本、書物、あるいは読書という行為そのものとの「出会い」は、微妙に大事にしていきたいと思っている。センチメンタルに言えば「運命を感じたい」ということかもしれないし、正味な話をすれば「そのくらいの動機無くして読書などする気にならぬ」というものぐさなのかもしれない。
今回読み始めた本は、森博嗣の「そして二人だけになった」(ISBN:4061822179)。読む時間は限られている(限らせている)のでまだ少しも進んではいない。
そもそも、私がミステリーなどを読む可能性は、通常ならばほとんど無い。そして、森博嗣(もり・ひろし)という人物が何者で、何をしている人なのか、つい先日まで全く知らなかった。ただその名前と、何か小難しい格言めいたものをなんらかのかたちで世の中に示している人物である(のだろう)という認識だけがあった。勿論、これは「出会い」としては全くもって不充分。しかしながら、この事前情報が無かったとしたら、もしたとえどんなに重要な人物(私にとって)から無理矢理この本を手渡されたとしても、水辺に牽引された馬が給水を拒むが如く、私はその本を読むことをしなかったであろう。
どう「出会った」かが重要なのかといえばそうではない。出会ったと認識したその内的事実が重要なのだと(勝手に)思う。
ともかく、私はいま一冊の本を手にしている。そして、読む、しかしながら、その主たる目的はストーリーを楽しむといった読書本来のそれとはあからさまに異なる。それは、この本を読むことを通じて、森博嗣という人物がいかなる人物なのか、彼がなぜこういう文章を書くに至ったのか、彼の書いたものがなぜ支持されるのか、そして、彼の文章を読んだ人間がそこから何を得るのか、といったようなことを頭の中で推定・構築するという、いわば多面的プロファイリングだ。
現実にそんなことができるのかといえばまあ無理であろうし、私にはプロファイラとしての能力があるわけでもないし、よしんばそれが私にできたとしても骨の折れることだ。通常、「楽しい読書のプロセス」として、敢えて遂行するようなことではない。
それでも私は、彼の開けた窓を通して世界を眺めてみる必要がある。つまらない窮屈なものの捉え方ではあるが、今の私には必要なことだと認識する。正直これはただの苦行かもしれないし、私にとっては鍛錬、修行、あるいは闘争であるともいえるのかもしれない。そういったようなもの(か、あるいは「そういったようなものと思われるそれ」)を、敢えて自分に課す。



私の好きな言葉。「動機は不純なほど良い。」