本を読まないことの功と罪

しつこいようだが私(おうる)は読書というものをしない。(「しない」と言い切ってしまってよいほどの読書量である。)このことによる損失はおよそ計り知れないのだが、音痴の人に無理くり歌えということや、方向音痴の人に地図を見ずに行け(来い)ということや、運動音痴の人に鉄棒で「蹴上がり」をしろ(因みに私(おうる)は「運動音痴」というほどひどくはないという自負があるが、いま「蹴上がり」はできない)、ということなどと同じくらい、私(おうる)に読書をしろというのは難しいことである。もはやできないものはできない。
仕方がないので私(おうる)は損を覚悟の上でその損を甘んじて受け入れ、そのまま生きてゆく。
そんな「非読書人」にメリットがあるなんてことは思ってみたこともなかったのだが、とある文章の校正に加担していて、ふと気付いてしまった。
「普通に読める漢字」のセンサーが自分の中にある。
読書量が圧倒的に少なく、およそ「義務教育」の範囲内でしか漢字に関する知識を蓄えてきていない私(おうる)の有する「漢字ライブラリ」は、ほぼ「常用漢字」のそれといって過言ではない。つまり、私(おうる)が「んんっ?」と思った漢字は広く一般的にも「ひらがな」にしておいたほうがよい可能性が高い、ということである。これを(一般常識人の)メリットと言わずしてなんと言おうか。
ただまあ、そんな私も比較的「熟語好き」であるため、私(おうる)自身の書く文章は無駄に「黒っぽい」。漢字に対する嗜好も若干(かなり?)偏っている。とりわけある種の「熟字訓」が好きだったりする。ただ、「熟字訓」のメリットは「読めなかったとしても漢字から意味が推し量れることが多い」ことである。黙読するぶんには全く問題がない。そして、その後になんらかのきっかけでその読みを解したとき所謂「A-ha体験」を味わうことができるという置き土産が付いてくる。
何故いま、突然に自分の不勉強っぷりをこんなかたちで弁解したくなったのか、その理由については私(おうる)にもよくわからない。