「嫌い」の罠(改稿再掲)

自分が好きですか? 嫌いですか? どこが好きですか? どこが嫌いですか?
なんて質問がよくある。たいていのひとはこの質問にあまり苦労せず答えることができるようだ。私(おうる)はこういう質問が得意ではない。
「自分が好きか嫌いか、どっちか決めなさい」といわれれば、「好きです」と答えるだろう。「本当は自分が嫌いなんじゃないの?」と訊かれれば、「はい」と答えると思う。「自分自身を心から愛せますか?それとも結局のところ無理ですか?」という質問なら、「愛せます」と答えるんじゃないかと思う。「比率で言うと、自分の中で好きなところと嫌いなところと、どっちが多いでしょうか」なんていう訊かれ方をした場合には「嫌いなところが多いだろう」みたいな答えになるかと思われる。
要するに、「自分が好きか、嫌いか?」なんて、究極にはどっちだっていいことのように、いまの私には思えてならないのである。

「好き嫌い」というのは、そもそもは生物がより生き残りやすくなるべく生み出した反応であるといえる。

  • 自分にとって害をなすと判断されるものを忌避することによって、病気や怪我、死、不健康などを回避しやすくなる、これが本来の「嫌い」の機能である。

そして

  • 自分を庇護してくれるものによりそい、栄養を採りやすい食物を進んで食し、自分の遺伝子を残すためにふさわしい相手を選定し、番うためのモチベーションを得る、これが本来の「好き」の機能である。

このことからもわかるとおり、本来「好き・嫌い」は外向きの感情である。これを自分方向、つまり内向きに演繹(って変な言葉だな。帰納といえばいいのか)するのはあまり意味のあることではないし、そのことについて考え込んだり悩んだりするのはもっと意味のないことだといえるだろう。
人間の脳は高度であるから、「相対している人間」と「自分」が同じ種類のものであることを比較的簡単に理解する。理解した次には、他の人間に対して抱く「好き・嫌い」の感情を同じように自分という人間にも適用できるということに気付く。そうして、「可能である」というその一点のみにおいて、同じ感情指向をつい自分自身にも向けて適用してしまうのである。そして、そのことによって生じるカオスにはなかなか気付かない。
行為としてみたとき、それは大いなる「矛盾」ではないか。
これに関しては、まあ、こういう言い方もできるだろう。

「自分について、好きなところ、嫌いなところがわかれば、好きなところをより伸ばし、嫌いなところを直すようにできる。つまり、よりよく生きるためという目的に合致している。だから、自分が好き、あるいは、自分が嫌い、という感情は、あながち無駄ではない。」
と。確かにそうである。しかし、本来の「好き・嫌い」は、そんな細かい感情ではない*1。「こういう外見のひと、嫌い」「こういう雰囲気の場所、好き」「このタイプのにおい、嫌い」「この手触り、好き」というような、いわば五感に直結したような大まかなものである。「どこが好き」とか「どういう部分が好き」というような感情の切り出しは、明らかに理性が関与している。うまく理性が、自分に対する「好き・嫌い」を理解の範疇に収めている間はいいのだが、「何だかわからないけど、なんとなく嫌いだ」というようなことだって現実にはよくある。本能的な感情の起伏は、必ずしも理性がそのメカニズムを把握できるとは限らない。その「なんとなく」の対象が他人なら、原因を近づけたり遠ざけたりができるので理性が作業放棄しても何とかなる。(本来、危険からすみやかに距離を置いたり、自分に利するものを余すところなく得たりといった目的に合致するため、「好き」「嫌い」の感情は直接身体へと素早く伝達される。理性が関与していたら間に合わない。)
しかし、「なんとなく」の対象が自分だった場合。これを回避することはできない(勿論接近もできない)。このとき、自分が自分から逃れたい、しかし逃れられない、しかも逃れちゃいけない、このジレンマがパニック状態をもたらし、感情が理性による解釈の限界を超える、そうなると…。

人間の思索は万能だなんて思ってはいけない。人間は考えるから偉い、のではない。思索の罠は此方彼方に開口しており、安易な思考によりさまよい始めた人たちをじっと待っている。「解なし」の方程式は、「解なし」が正しい答えである。私(おうる)は、「自分が好きか、嫌いか」の一般解も「解なし」だと思っている。勿論のこと「求解の領域」など条件を設定・限定すれば解けるとは思うが、無理して答えを出さなくてよいという気がする。

*1:少々ずれるが、(「理想の相手」に関して)「本能は「こんな人だ」は教えてくれるが、「この人だ」は教えてくれない」、なんてこともよく言われる。