私が折に触れてあちこちで吐いていることを、ひとつまとめておこうという気に、ふとなった。



 私は「頑張れ」という言葉が嫌いである。…いや、「嫌い」ではない、かもしれない。THE BLUE HEARTS の「ひとにやさしく」は好きだし、この曲には幾度となく励まされてきた。ひとの頑張る姿は美しいし、頑張ることがいけないことだなんて言うつもりは毛頭ない。表現を正確にするならば「私は安易に『頑張れ』と言わないように努力している」ということであろうか。
 以前は私もひとに「頑張れ」と言っていたし、決め台詞に欠くときは「…頑張ります」と言っていた。これを言わなくなったのは、正確にいつのことかは覚えていない。私が経験した、あるいは知り得たいくつかのこと、それらが徐々に私にそうさせたらしい。
 その最初は、たぶん高校卒業の頃。受験に負けずつくられたクラス文集、教わった先生方からの直筆コメント。古文の先生の文により、私は「かたくな」を漢字では「頑な」と書くことを知った。その後、「頑張る」という語は「我を張る」から来ているという一説があることを知った。私にとって「頑張る」とは、「頑なに我を張る」ことだと、そうなっていった。
 高校時代、そして大学時代も、私はなにかと落ち込むことが多かった。落ち込んだときは、例外なく自分を責め、「立ち直らねば」と、もがいた。結果、もがいていいことは、あまり無かったように思う。実力というものがあるかどうかはさておき、力が発揮できなかったのは落ち込んだせいだけではなかったかもしれない。その後、「落ち込んだ人には『頑張れ』と言ってはいけない」と、どこかで教わった。それは心理学的に逆効果であると。これは、私にとってじわじわと「効いた」。折に触れて考えてゆくうちに、「頑張れ」という言葉の、その高圧的な無責任さだけが鼻につくようになっていった。
 いつしか私は「頑張れ」という語を意識して使わないようになっていった。他人から「頑張れ」と言われたときには、ひそかに軽蔑気味に構えるようになっていた。「頑張っている」と自称する人のことは、まず疑ってかかるようになっていた。…しかし、ある種そこには、より「頑な」な自分がいた。それは単に「頑張らない」ように「頑張っている」だけだった。
 考えなくたってわかる。それでいいはずがない。
 そして、私なりに考えた。この答えは比較的簡単かもしれない。「頑張れ」という語を封印することによって、それでもなお、頑張らなくてはいけないときと場面があることがわかってくる。年に数回ぐらいは、そんなときがあるだろうか…。また、ほかの人がかけてくれる「頑張れ」の語が、ほかの人が語る「頑張ります」の語が、どの程度本気なのかを知る手がかりもそこにはあった。客観的にみて「頑張りどころ」でない場面での「頑張ります」は、ほんの御挨拶、「今日はいい天気ですね」と同じくらい軽い。
 もちろんすべてなどわからない。しかし、普段あまりに軽い私の言葉。こうして一見無駄な堂々巡りの思考を繰り返すことによって少しは重さを増したかもしれない。少なくともいまや私が「頑張れ」の語を発するときは、その相手に対してかなり本気である可能性が高いのだ(さもなくば油断しているときである(爆))。また、「頑張る」でなければ、一体何なのか、これも私にとっての課題である。「頑張れ」と言わなくても、私の気持ちは変わるものではない、それを伝えたいのもやはり変わらないのだから。

 というわけで、「頑張らなくてイイ」。…でも、年に数回ぐらいの決めどころでは、「頑張れ」。