私(おうる)は現場から離れたので↓以下のようなことも言いたいように言い放つ。

視力が低下したら、野生生物ならば即ち死を意味するとか、歯がなくなったとき、それは野生生物にとっては寿命を意味するとか、そういうようなことを調べもしないで言っていいのかな。経験的に、とか、物語的に、といったスタンスならば納得だが、少なくとも科学的(科学者的)な態度ではないだろう。自然淘汰のふるいは甘くない、これは現場に出たことのある人間ならば経験的実感として知り得る事実である。しかし、それがあたかも「見えざる神の手」によるものであるかのように、100% 確実に機能すると定義づけるのは、最早科学的思考ではなくいわば宗教的儀式である。あるいは、単なるやっかみ根性か。
「視力の劣る野生生物が即死亡する」というのは正確さを欠く表現であると言わざるを得ない。正確に表現するならば「人間がもし孤独な野生生活をしたならば、視力の低下は死を意味する」であって、生物、あるいは動物全体に演繹できる話でないことぐらい、冷静になって 5秒間考えれば誰にだってわかりそうな話だ。それがわからないのは、それこそその人が「人間目線でものを見ることしかできず、野性的視力を欠く」証拠。
そうでなくても人間は実視力に頼りすぎる生活をしている。それ以外の感覚を疎かにしている。生きて行くために駆使する感覚なんていうのは、実際はもうちょっと総合的で、積分的?なものであり…まあしかしこれはまた別の話であるし、科学的な話でもないから今回はあまり掘りさげない。
精進することって本来はストイックなもので、そのストイシズムの最もストイックたる部分はといえば、「そのストイシズムをべらべら喋らない」というところにあるのではないかと私(おうる)は思う。脚力を維持すること、結構。寒さに強い体を作ること、結構。歯を維持すること、結構結構。視力を落とさないように鍛えること、ああ大いに結構。でもそれって、あんた誰かに自慢したくてやってんの? 誰かにスゲーなって言われるためにやってんの? 違うの? だったら黙ってなよ、余計格好悪いから。
どうもナチュラリストを標榜する方々には、自然と人工を明確に分けたがる傾向があるように感じられてならない。私(おうる)はどうにもそういうちくちくした肌触りが心地よくなく、いまいち馴染めないのだ。「ああそれ野生生物だったら死んでるぞおまえ」ってさ。
どうなのよ、それ。