危険との邂逅

昔、私(おうる)は現場に出ていた。そこは(勿論程度の差はあるが)油断すれば身体に危害の及ぶ危険をはらんだ場所であった。幸いにして深刻なダメージを実際に被ることは無かったのだが、肝を冷やしたことなら数知れず、「このままではまずい」と思ったことも幾度、自らの身体能力のほぼ限界近くまで引き出し、装備のぎりぎり最善を駆使しなければどうにもならないこともあった。
大学時代は、卒業研究などのためにフィールドに出た。指導教官からは耳にタコができるほど「気を付けろ」と言われた。現実的な指示も繰り返し繰り返し聞いた。にもかかわらず、私(おうる)はいちどだけ「具体的な身の危険」を感じる結果に陥った。このまま私(おうる)が諦めれば、発見されるのは半年後だろうな、と思った。(そのとき簡単に諦めなかったので、いま私(おうる)はここでこんなものを書いている。*1
いま、私(おうる)は、普通にしていて死ぬことはない。そりゃ勿論、道を歩いていて車が突っ込んでくるかもしれないし、乗っている電車が脱線転覆するかもしれない。脳梗塞だとか心筋梗塞だとか、いつ突然死しないとも限らない。でもそれは全ての人に概ね平等に起こりうる「厄災」のようなものだ。私(おうる)の今の生活は、以前のそれを「体育の授業」になぞらえた場合の「国語の授業」だ。国語の授業中に骨折することはまず無い。*2
ともかく今の私(おうる)は、圧倒的に安全圏にいる。これはつまり、日頃、私(おうる)の周りにいるの人も安全圏にいるということだ。肉体的に危機のない日常にいる人達、そんな人達が知らず知らずのうちに求めるスリルは、精神的な危機である。どっちがいいとか悪いとかそういうことは判らないけど、私(おうる)に関して言えば、そんな出来レースたる不自然な消耗戦は要らない。そんな致死量ストレスも要らない。「人生のスパイス」たる危険はともすれば豊かな人生に必要なものなのだとしても、私(おうる)のが暮らすにあたってそんな調味料は要らない。

*1:そのとき死ねばよかったのにとか言うな。

*2:ただし「理科の授業」だと話は少々異なる。私(おうる)は「理科の授業中」に片目を潰した人を知っている。