そうは言ってもね。

最近思うのは、酒を飲まないというのはある種のコミュニケーション拒絶の記号論的記号であるということで、それはそれでまあある意味覚悟の上、というか折り込み済みではあるのだが、それは確実に帯域の制限になっている。おろか、「飲みに行こう」ということそれ自体がある種の言語というか、コンテクストになっている現状を意識せざるを得ない。こんなことはもうとっくの昔に、それこそ、周囲の人間が飲酒をするようになってすぐの頃からわかりきっていたことなのだが、…のはずなのだが、個別論ではまた違う重みを持ってくるようだ。そして、わかりきったことと枠に当てはめるのは簡単だが、それは同時に易き道であるということでもある。常にそのひとつひとつを検証してゆかねばならない、というこれが常ならざる道を採った者のいわば宿命といえようか。
そうは言っても、と、一方で思う。「そんなもの、糞喰らえだ。」と言う。酒によって広がる世界など、別に興味がない、と強がる自分がいる。ビール片手に夜のサイクリングが、という人に「それは道路交通法違反だから。」と冷静に切り返す自分に少々の欺瞞と少々の誇りを感じる。私の体内に ethanol は不要であると言い切れる。ただの強がりではない、
それくらい
嫌だったのだから。