雨待ちの喫茶店

昔、5日間で東京都内の 35箇所を駆け巡る都市型の野外調査を(ひとりで)やったことがあった。急遽実施されることになった急ぎの調査、しかもお金をかけることができない(予算がほとんど無い)ので車は使えない。勿論、都内を駆け回る際の車の取り回しを考えればむしろそれは「願ったり叶ったり」でもある。(さらにいえばこの調査、やる前から結果が決まっている。これは決められた結果を導くための調査。調査自体を楽しんでやって行くしかない。) いわば、ある意味私(おうる)にしかできないような調査であった。
1地点での調査所要時間は 30分〜 1時間。生物系の調査(のはず)なのにその地点は「新宿区歌舞伎町」から「大田区田園調布」「目黒区鷹番」「練馬区東大泉」「荒川区西日暮里」「府中市是政」etc. etc. 。都心から辺境(失礼)まできれいにちりばめられたその地点、どう順調に巡ったとしても、移動時間のほうが調査時間よりも多い。公共交通機関を、それこそプチ西村ですかというぐらいに駆使、残りは地図をにらみ合わせて片道 45分までなら徒歩。前日夜のうちに練りに練った予定コースの調査が早く済みそうならば現在地から効率よく行ける次の調査地点がないか再検討し、逆に予定がこなせそうになければ翌日以降にどこを残せば効率よく行きそうか考える。偶然いいバス路線を見付けたならそれを活用、地図で調べて乗ろうと思っていたバスが実は 1日に 10本しかない閑散路線だったりしたら思い切って歩く。なにしろ単独行なので朝を日の出とともに始めようがどこでいつ昼食を採ろうが休憩しようが強行しようが散髪しようが(ぉぃ)全然構わないわけで、ハードではあったが思いのまま進められる仕事は非常に楽しかった。私(おうる)の機動力の高さを象徴する伝説の調査ともなった。
調査期間中はほぼよい天気だったが、1日だけ、雨に祟られた日があった。周囲に公共交通機関のない孤立した調査地点へ、傘をさして徒歩で向かう。雨の中でも調査はできるが、A4版の調査用紙何枚かに書き込みをしなければならないためかなり厳しい。幸いにして今日のノルマは午前中のうちに詰めたおかげで残すところあと 1地点のみ、余裕は充分にある。地図を読み違えてなければ調査地点までは歩いてあと 10分弱というあたりで雨は急に強くなってきた。そろそろ疲れもキている。「この雨はじきに通過する」と読んだ私(おうる)は、ふと目に留まった喫茶店に入った。
外観、内装ともに木造りのちょっと洒落た雰囲気。他にお客さんは居ないし、来る気配も無い。周囲は閑静な住宅街で駅や目立つランドマークも無く、「お、ちょうどいい、ひと休みしていくか」というきっかけの片鱗も見当たらない立地。(つまり私(おうる)は全く稀有な存在である。)恐らくは、ほんとうにご近所の、寄合所的な雰囲気で普段は利用されているのだろう。
ここで正味 1時間、過ごすことにする。コーヒー一杯で居座るのも悪い気がするが、そんなことを思ってしまうのは私(おうる)が喫茶店慣れしていないからかもしれない。
本日分のデータ整理をし、今後の計画を再検討する。天気さえ回復すれば、今日の残り 1地点終了後、もう少し稼げるだろう。そうしてじきに 30分が経過し、あとは雨だれに曇る窓を眺めながら何をするでもなくぼうっとすごす。窓の外には眺めるべき景色もないから、外は見えなくても一向に構わない。誰が言っていたのか、外出しなくてよい日の雨は至福だ。美味しいコーヒーでもあれば言うことなし。つまり、今の私(おうる)は、あと 30分ほど、言うことのない時間を過ごす。
雨はほぼ上がった。足の疲れも幾分か回復した。折り畳み傘をカバンの中にしまい、私(おうる)は店をあとにした。
だいぶ前の話なので、その喫茶店も、調査地点もどこだったのか覚えていない。その喫茶店に私(おうる)が行くことも無いだろうし、ひょっとするとその場所に喫茶店は無いかもしれない。
私(おうる)は #N/A なので行きつけのバーとか一生できないわけだが、かわりに行きつけの喫茶店とか(私(おうる)の人生に)欲しいな、と、ふと思った。