意外と寛容である(という仮説)

葉緑素は、植物が光合成をするのに欠かせない物質であるそうだ。植物の光合成は、地球が酸素に満ちた「青い星」であるために欠かせない作用であるという。
植物の葉が、ひいては葉緑素が、何故緑色なのかというと、あまり難しいことを考えなければ「それは緑色の波長の光を吸収しないから」であると言っていいらしい。(勿論私(おうる)は「難しく考えなさい」と言われてもできないから、理解もこれ以上進むことはないのであるが。)だが、このことだけでも、ひとつの重要な事実に思い至ることができる。それは、「葉緑素は、緑色波長の光をエネルギー源として利用することができない」という事実である。
そして太陽から来る可視光のうち、最も強力なのは緑色〜黄色附近の波長の光である。使えば有効なエネルギー源となるはずの「美味しい」部分を、葉緑素は何故敢えて取りこぼしたのか。そして、植物は何故、敢えてそのような物質で光合成を行うようなシステムに甘んじたのか。
これには勿論諸説あるようで、例えば、太古の昔は太陽光のスペクトルが現在とは異なり、緑色光はピークでなかった、とか、緑色の光が強すぎて有害だった、とか、等々。
私(おうる)はこう考える。「まぁ、それでもなんとかなったので」。
別にそんな最大限有効にエネルギーを利用し尽くさなくても、とりあえず生きてゆくに充分だったので、光合成植物は生き残り、現在の地球上に繁栄している、と考える。 大体において、ほんとうになにはさておきエネルギー効率を考えるのであれば、可視光よりもエネルギーの大きい紫外線など短波長な光を利用するべきであろう。
よく「自然は厳しい」という紋切型の見解を持つ人がいる。果たしてほんとうにそうであろうか。翻ってみるに、動物や植物には「これほんとうに役に立っているのか」と思わされるような形態とか、「これは間違いなくなんの役にも立っていない」というような器官とか、「却って困りものだ」というような生体反応とか、そういうようなものが結構ある。致命的なものでなければ、生物は意味不明なそれを後生大事に抱えながらその生をまっとうする。
そういうことで言えば、自然は容赦ない存在ではあるが、意外と寛容であると言えるのかもしれない。