閑話休題。(2001/12/19の閑話休題)

 「Think globally, Act locally.」(あるいは「Think global, Act local.」)という言葉がある。1992年のリオ宣言か「アジェンダ21」あたりで出た言葉ではなかったかと記憶している。(あとで調べてみたがあまりよくわからなかった。とりあえず pending ) 環境問題に端を発しているこの言葉、我々が階層構造を持った世界において社会生活を営んでいる以上は、およそあらゆる場面において有効な標語であるといえよう。考えるのは地球規模の視点で、そして行動は、自分のできる小さなことから、ひとつずつ。
 とはいいながらも、環境問題ならいざ知らず、社会問題に関してこれを適用するのはちと難しい。さきの「テロ←→戦争」についてもそうだ。いきおい「自分にもできること…募金?」とかなってしまうだろう。しかしこれは間違った道へも繋がる。よく日本の ODA が批判の対象となるが、「金なら出すが」という感覚に根ざすところがある以上、募金だって同じ側面を持つ。…プチ ODA だ。しかも額は極めて小さい。
 (後日追記:「ODA」=「お金だけあげます」(OkaneDake Agemasu)というのだそうな。典拠不詳。TVのワイドショーにて。)
 私は、募金が悪いと言いたくはない。立派な社会貢献のひとつだ。「何もしない金も出さない」よりは遥かにマシだ。やりたい人、そしてそれをやろうとしたとき実際に可能な財力のある人は、どんどんやって下さい。日本には「浄財」なんていう素敵な腐れた言葉もあるくらいだし。
 じゃあ、募金以外に私はなにかできるのか、と考える。戦争は何故なくならないのだろう。人間は生物であるがゆえに、闘争し、いがみ合う存在なのだ。生物にとって、闘って生き残ることはその存在の一側面である。だから人は、自分にとって害をなすと判断されるものは排除したいと願う。これが忌みの感情のもとだ。国家レベルの忌みに火がつけば、それは戦争になる。…そう考えたとき、では私はどうすべきか。
 私は、世の中の憎しみのうち、自分にかかるものをひとつ消そう。私が今日感じた疑念や呆れ、そしてそれに基づく怒りのような感情をひとつ亡きものにしよう。それが世界平和に直結するわけもないのだが、戦争やテロについて考えたときに、私のできる「平和」への貢献とは、真の意味で私が手を下せる平和、つまり私にかかるいさかいをなくし、私の身近を平和にすべく努めることだ。
 
 募金よりはるかに難しいかもしれない。でも、私にしかできないことでもある。努力のし甲斐はあるだろう。
 
 こうして私は、ひとつ平和に近づいて眠りにつく。そして、もうひとつ気付く。絶対的世界平和が永遠に訪れないのと同様に、私にとっての絶対的平和も永遠に訪れることはないのだ。…そう思うと、この「平和」という、私にとっては少々肌触りのよくない概念と、ちょっとだけつきあいやすくなった感じがした。



そしていまの私(おうる)は「衣食足りて礼節を知る」という言葉を噛みしめている。
災いは私のなかにある。