書くか、書かないか

先生からも「いばらの道」といわれ、事実、先も見えなくて、それはそれでも別に構わないと思っていたのだが、力不足ゆえ結果的には退かざるを得なかったその道。つらいことだって、なんとも思わずに進んでいたつもりなのに、ひとりで勝手に少しずつ蝕まれていたのはこちらのほうで、それはもはや退いたからといって元に戻るとかそういう性質のものではなくて、蝕まれていたというよりはそれはその道を進むための「適応」の途中であり、そしてその適応的変形過程はいわば、不可逆。
でも、もうこれからは、道端で人知れずしおれてしまっていないか、とか、息もできずに苦しんでいないか、とか、そういう心配をしなくていいんだ、よくなったんだ、と、そう思っていた。
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水族館で哀しいことがあるとすれば、水槽のガラスにぶつかって弱ってゆく魚たちを、私にはどうすることもできないこと。
歯科医に行っていちばん困ることがあるとしたら、それは治療を途中でやめられること。



triplet さんの言及、視点、着想がおもしろい、いいと思った。
私(おうる)の場合は、その日のとある事象・心象を「書かないでいるかどうか」のほかに「どこに書こうかな」というのも、ある。ミニマムなニュースとして事実を書くか、感想だけ書くか、という選択もある。勿論、具体的に書くか、曖昧にぼかすか、あるいは比喩でまとめるか、についても結構砕身する。
実際は、あんまり考えないで書いてしまうことも多いが(これが「無意識の選択」にあたるのかもしれない)