誕生日に寄せて

 会社人になりたての頃にはよく「おまえほんとうは歳、10歳ぐらいごまかしてるだろ。」とか、「ほんとは隠し子とかいるんじゃないの?」などと言われたものだ。勿論のことそんなものはいないし(いないったらいません。だって私はLV2(以下検閲))、歳もごまかしてはいない。ごまかせたらおもしろいんだけど…。大学卒業(修了)間近の3月に福島まで合宿制の自動車教習プランで運転免許を取りにいったときには(南湖自動車学校さんお世話になりました(^-^;))、最後まで「大学2年生」でばれなかった。ほんとは修士2年。中学3年のときにはクラスメートのひとりから「2歳」と呼ばれていた。中学2年のときに教わっていた音楽の先生からは、「あなたはいちばん子供でいちばん大人の話ができるわね」といわれたのが、なにか妙に嬉しかったのを今でも強く覚えている。
 先日はメールをやりとりしている友人から、「思想的には非常に年を喰った一面がある(温故知新の部分とか)」という趣旨の指摘を受けた。ときに私も、自分で自分の年齢が非常に無意味に感じることがある。どんなにエラソーなことを言ってみたところで、プチ・ローリング・ストーンな生き方をしてきた私に社会的なステータスは、ない。またそれをいいことに私自身はそちら方面の努力をせずに来た。(私にとってそんなものは無ければないで鬱陶しさがひとつ減るだけの話である。)自分、というものが、ある面非常に希薄であるが故に、ちょっとしたきっかけで精神年齢が動く。またそれ故、強烈な個性としてのナニカが突如表出することもある。しかして私は、相対する人それぞれに全く異なる印象を与えるらしい。年齢の印象も、また然り、である。
 だから私は、もともと年齢というものに確固たる信念のようなものを持ち合わせていない。だから、日々加齢してゆくことに対し、それほどの焦燥は感じない。それはむしろ、中学・高校時代の「明日への焦燥」から較べれば、全くないにひとしい。そう、あの頃、どうにも想像がつかなかった30代の自分が、今、現実にここにいる。これという断絶もなく、かといってそのままでもなく、私は10有余年の時を経過した。さまざまな不安やいらだちをどうすることもできずに持て余していたあの頃、「きっと今のこの気持ちも10年後には薄まり、風化し、消えてなくなるんだろう」と思っていた。しかし、薄まりはしたものの、決して忘れてはいない。あの頃の私が大いに悩み、もがき、時に狂ったように吐き出した数々の情動は、今でも確かに私の一部だ。そしてこれからも私の一部であり続けるだろう。ある面、昔から常に私の中にあった年齢。ある面、永遠に辿り着かないような気がしていた年齢。私は、やっとそんな歳になった。
 だから、きっと、これはめでたいことだ。
 30歳おめでとう、自分。そして私の誕生日を祝福してくれた皆さんひとりひとりの顔を思い浮かべつつ、…ありがとう。

(2001/06/27記す)