その先生(ひと)は

私(おうる)の場合、つまらない単純作業*1をしながらなにを考えているかというと、ほんとうに他愛もない過去のよしなしごとを彷彿していることもあるのだが、その多くは、その作業そのものについて考えを巡らせている。ときには、左側に置いてあるものを素直に左手で取るより右手で取れば背中の筋肉(僧坊筋とか)のストレッチになるとかそういうフィジカルなテーマ。またあるときは、素工程の所要秒数を(頭の中で)はかり、全体の所要時間を予測する。このことには 2つの意味があり、ひとつには素工程のどこをどう工夫すれば無理なく時間短縮できるか考え続ける、また常に作業進捗を把握するべく努めるという QC 的側面、いまひとつには単純に計算が苦手な自分の頭にあんまり意味のない計算をさせてあそぶ(弄ぶ)というレクリエーション的側面。
要するに、あんまり深いことは考えていない。というよりむしろ、私(おうる)は、睡眠時間とは別に、なにも考えなくていいという時間が必要な人間である。その時間で、結局ナニカを一生懸命考えていたとしても、それは飽くまで結果の話であって、なにも考える必要がないという時間が一定以上あるというそのことが非常に重要である。
でも、誰しもがそういう時間を必要としているわけではなく、むしろそういう時間は勿体ないと判断する人が多いようだ。私(おうる)は、そう考えることが勿体ないと思うのであるが。
話は学生時代に戻る。
その、フランス生活の長かったという定年退官間近の教授(ここでは仮に「ムッシュ」と呼ぶ)は、庭仕事ばかりしていた。そののめり込み具合は相当なものだった。装備も日に日に充実してゆき、研究室には彼の専門分野の学術誌とともに園芸雑誌が常備されているという噂。もともとやせ形の彼が「コンパクトに」うずくまって、芝生の中で草をいじっている様子から、彼が用務員のジイサンであると勘違いする新入生が続出したとしても全く不思議はなかった。(実際、理学部(地球科学科)には専任の庭師さんがいていいよねー、なんていう声があったとか、なかったとか。)
そもそも、彼の研究は実験系だったので、待ち時間が非常に多い。その間は、いくら焦ったところでどうしようもない。でも、実験装置は必ずしも安全なものではなかったから、そうそう離れるわけにもいかない。いきおい、実験棟(通称「爆弾小屋」)の近くで草いじり、というはこびになったのではないか、というのは飽くまで私(おうる)の邪推。
私(おうる)の所属する学科に所属する「庭師」はひとりではなかった。もうひとりの「庭師」は、あしたば、枝豆、パセリにハーブと、専ら実用的なラインナップで、どちらかといえばそれは「農園」であった。対してムッシュの縄張りは、綺麗に刈り揃えられた芝に季節の花。さしずめそれは「庭園」であった。天気の良い午前中にはその「庭園」をのぞき込めばまず間違いなく、白衣を着込んでコンパクトにしゃがみ込みひとり黙々と草をいじる彼の姿があった。
あるとき、私(おうる)は研究棟の近くで植木鋏を拾った。半分土に埋もれるようにして発見されたそれは相当前から放置されていたらしく、サビがかなり来ており全く動かなかった。しかし、悪いモノではない。持ち前の道具好きのマインドを発動し、軽快に動くようになるまで調整する。仕上がりは完璧。ついでに切れ味も調整。
と、ここで、「その鋏、ムッシュのじゃないか?」と友人。そういえばそうかもね。ということで、晴天の翌日、庭仕事中の彼に声をかけてみる。「これ、先生のじゃありませんか?」と。彼は「おお、ありがとう」と受け取り、鋏を握ってみて一瞬首を傾げていた。(……!!)
あとで聞いた話だが、庭仕事中の彼には話しかけないほうがいい、挨拶もあまりしなくていい、ましてや「手伝いましょうか」などと切り出す必要は全く無いのだそうだ。彼の庭仕事はいわば思索の手段であって、一説によると彼はコンパクトにうずくまり、草をいじりながら相対性理論について思考実験を繰り返しているのだという。
私(おうる)には真似のできないことであると感じた。それと当時に「ひとり淋しそうに」というのはこちら側の人間の勝手な思いこみに過ぎなかったのかもしれないな、と思った。一方で、私(おうる)には、やっぱりひとりのジイサンがコンパクトにしゃがみ込んで草をいじっている、それ以上のなにかには見えなかった。話を聞いたからといって彼の思索が私(おうる)の前に具現化するわけでもない。私(おうる)にとっては、長いこと紛失していた自分の道具を受け取ってすぐにそのコンディションに疑問を感じる(打刃物の植木鋏を数日以上野ざらしにすれば、全く動かなくなっていて当然)鋭さだけで充分、それ以上の情報は必要ない。ひとのあたまのなかというのは、基本的には、伺い知ることができないものであって、ときどき飛び出したり滲み出たり溢れ出たりするもので判断し、推測し、描くのみ。
いろんな人がいる。大鉈を常に振り回している人もいれば、一瞬の切れ味ですべてを語る人もいる。力任せに鋏を使うことしか知らず、隣人のその一閃を何百回と見逃し、一度もそれに気付かぬまま一生を終える愚者もいる。大きな括りでいけば私(おうる)も愚者の側に属する人間である。でも、余所からなんと言われようと、その鋭利さを理解しうる、利器を知りうる程度には、自分自身も鋭利でありたいと願う。
何を言いたいのかわからなくなった。

*1:クリエイティブでないという意味合いにおいて「つまらない」のであって、すべての価値判断基準において単純作業が「つまらない」などというつもりのないことは、この文をすべて読んでいただければわかると思う。

いけない

夜に混雑する反対方向の電車内で、痴漢騒動があったようだ。ヘッドホンをしていたので気付くのが遅れたのだが、私(おうる)が電車待ちをしていたすぐうしろに数人のカタマリができていた。構成は、駅係員 2名、犯人(と目される男性)1名、目撃者かあるいは捕まえた人 2名、そして被害女性 1名。
その女性は、はっきりわかるぐらい激しく、がくがくとふるえていた。少なくとも、演技や誇張でできる類いのものではない。
いろんな意味で、魚のような目をした男性。青白い顔をしているが、酔っているのか。うなずくでもなく、反駁するでもなく、どちらかというと現状を認識していないような雰囲気。
具体的になにがあったかは藪の中ではあるが、してはいけないことがされ、あってはならないことが起きた。(当事者の、どちらにとってそれであるのかは定かではない。)そして私(おうる)は何故か、見てはいけないものを見てしまった、という強烈な思いにとらわれた。